みちのく真田ロマンス
あれから400年、今も続く愛と絆のドラマ
– 発見、みちのく真田ロマンス –
大坂夏の陣で自らの最後を悟った真田信繁公は、敵将片倉小十郎重長公に密かに子女たちを託しました。
後に息女「阿梅姫」は白石の地で重長公の後室となり、次男の大八は伊達家の武士となり、現在の蔵王町矢附・曲竹に領地を構えて幸村公の血脈を伝えました。息女「直」は現在の秋田県由利本荘市にあった亀田藩の藩主、岩城宣家公の正室となり「御田の方」と呼ばれました。
大坂夏の陣から 400 年、脈々と続く愛と絆のドラマがこの東北の地にもあったのです。
みちのく真田ゆかりの地を旅すること。そして真田のロマンを感じること。
信繁公が大切にした「家族の絆」をみちのく真田ゆかりの地で感じてみませんか。
ゆかりの地#1 宮城県白石市
信繁(幸村)の姫「阿梅姫」が生きたまち、宮城県白石市
白石市は、伊達政宗公を支えた名将片倉小十郎景綱公の城下町です。平成7年に復元された「白石城」の周りには藩政時代から変わらぬ堀割に清流が流れ、毎年6月頃には、「梅花藻」が美しく可憐な白い花を水中に咲かせます。
片倉家と真田家は深い絆で結ばれています。大坂夏の陣において信繁(幸村)公は敵方である二代片倉小十郎重長公を知勇兼備の将と見込み、子女阿梅、大八らの後事を託しました。
長じて阿梅姫は重長公の後妻となり、後に大八は伊達家臣となりました。
市内「当信寺」には阿梅姫と大八の墓があり、「愛宕山山麓」には信繁(幸村)公の墓があります。
城下町白石の町歩きを兼ねて真田家ゆかりの史跡巡りにぜひおいでください。
【お問い合わせ】白石市市民経済部商工観光課
TEL:0224-22-1321
しろいし旅カタログ
ゆかりの地#2 宮城県蔵王町
全国唯一の『真田幸村公血脈の郷』宮城県蔵王町
大坂夏の陣で活躍の末戦死した名将・真田幸村公。その次男・大八は、徳川方の追跡をかわして伊達政宗公・片倉小十郎重長公に匿われ、白石で育てられました。
成長した大八は、表向きは幸村公の叔父の末裔として伊達家の武士となり、今の蔵王町矢附・曲竹地区に領地を得ました。蔵王町内には、明治初期に没した真田幸清の供養碑やその甥・豊治の墓碑が伝わります。
これらには『幸村十世』『幸村十一世』と刻まれています。幕府を警戒して秘密にしてきた幸村公直系という事実を、明治の世を迎えて天下に示したのです。
大坂落城とともに絶えたとされた幸村公の血脈が、時を超えて伝えられた蔵王町。全国唯一の『真田幸村公血脈の郷』です。
【お問い合わせ】蔵王町農林観光課
TEL:0224-33-2215
真田の郷・蔵王町PR活動公式ホームページ
ゆかりの地#3 秋田県由利本荘市
真田幸村の血統、御田の方と三好幸信の今昔物語
由利本荘市は、藩政期には「岩城氏の亀田藩、六郷氏の本荘藩、生駒氏の矢島藩」の3つの藩があり、城下町を形成していました。真田信繁(幸村)公と隆清院(豊臣秀次の次女)の間に誕生した女の子は「直」(信繁の五女)と名付けられ、後に岩城宣家公の正室となり、「御田の方」と呼ばれました。御田の方は寛永6年(1629年)に、父母の菩提を弔うために妙慶寺を創建しました。
御田の方は亀田藩では、良妻賢母として名高く、名君と呼ばれた3代藩主重隆公を養育するとともに、武道にも秀でた女性として語られています。また、信繁(幸村)公の三男である真田左馬之助幸信は、御田の方の夫君宣隆公に迎えられ、亀田藩士となり「三好」の姓を名乗っていました。現在、妙慶寺には、御田の方や幸信公の墓所や御田の方が持参した甲冑などが多数収められている宝物殿があります。
※妙慶寺、宝物殿の見学は事前予約が必要です。
【お問い合わせ】
由利本荘市観光文化スポーツ部 観光振興課
TEL:0184-24-6349
「由利本荘物語」由利本荘市観光協会公式サイト